住職の小話

2023.10.31

報恩講について、思うこと

 仏教では祖師のご命日を縁として、その遺徳を偲ぶ法要が多く営まれています。各宗派でその呼び名はさまざまですが、浄土真宗では、その法要を「報恩講」といいます。

本願寺で「報恩講」という名称が使用されるようになったのは、第三代覚如上人の時代からです。永仁二年(1294)、覚如上人は25歳の時、親鸞聖人の三十三回忌法要にあたって、『報恩講私記』を著されています。『報恩講私記』は、聖人のご遺徳を讃えた聖教です。これ以降、聖人の御正忌法要(法事)を報恩講と呼ぶようになりました。」
つまり親鸞聖人のご遺徳を讃仰するのが、報恩講の趣旨・目的です。

讃仰とは親鸞聖人の90年のご生涯を誉め称え、教えを仰ぐことです。

そしてご命日にご遺徳を偲び法要を営むのは、私たちにとって、父親や母親の法事を営むのと同じだと思います。

報恩講というのは、父親や母親の願いに出遇っていく心が育てられる法要です。願いに出遇っていける人生が何よりも大切なことだと、報恩講にあたってお気付きいただければと思います。

本願寺派総合研究所副所長の満井秀城先生は、『本願寺新報』(2020520日号)で「称名報恩」について次のようにお書きくださっています。

「阿弥陀さまが〈ご恩報謝〉の念仏を誓われたのは、念仏申す中から、ご恩のわかる人に育ってほしいと願われたからに他なりません。私たちの欲望には際限がなく、〈あれが欲しい〉〈これが足りない〉と、不平・不満の毎日です。それが、ご恩のわかる人に育てられることで、〈ありがたい〉〈もったいない〉という感謝の毎日に変わるのです。」


「不平・不満の毎日」は決して人ごとではありません。自分のことです。こんな私たちの生き様に対して、「ありがたい」「もったいない」という心を育ててくださるのが親鸞聖人の教えだということを、報恩講という言葉は表しているのです。