住職の小話
2022.04.26
蓮如上人の御文章より 明日をも知れぬ命を生きる
明日をもしらぬいのちにてこそ候ふに、なにごとにも申すもいのちおわり候はば、いたづらごとにてあるべく候ふ。命のうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは、さだめて後悔のみにて候はんずるぞ、御こころえあるべく候ふ。(御文章)
今から五百年前に、蓮如上人がお書きになった、お手紙を味わってみたいと思います。
これは、「明日をも知れぬ命ですから、何を言っても命終わってしまえば役に立たないことです。命あるうちに、不審を晴らさないと後悔することになります。」と、述べられているところです。
私たちは、「明日も知れぬ命」を常識として理解していても、どうしても目先の幸、不幸を一番に思いがちです。自分の死という大きな問題に目をそむけて暮らしていることは、人生をむなしく過ごしてしまう原因であり、後悔ばかり残る「いたずらごと」な人生になってしまいますよと、厳しく戒めてくださっているお言葉です。
私たちは、生きている限り、たくさんの悲しみや苦しみ、淋しさに出合っていかなければなりません。そして、必ずやってくる自らの死もまた、決して逃れることは出来ないものです。だからこそ、自分の人生が、ただ苦しみや悲しみの苦悩の中に終わってしまわないように、命あるうちに、「まこと」なるものを聞き定めておかなければなりません。それが「不審をはらす」ということです。
親鸞聖人は「念仏のみぞまこと」とおっしゃいました。つまり、どんな苦悩の中にあっても、決して変わることの無い、本当の心のよりどころとなるものが、お念仏の教えであると勧めてくださっているのです。
お念仏の教えは、無量の死の縁の中に生きている私でありながらも、阿弥陀如来様の救いが、そのすべてを見抜いた救いである限り、私がすでに仏のみ手の中に包まれ、命終わる時には必ず浄土へ生まれる我が身であることを教えてくださるものです。
そしてまた、お念仏の教えは、すべての苦悩に意味を与えてくださる教えでもあります。病気をしたからこそ、健康の幸せを知ることが出来ます。別れの悲しみの中でこそ、命のはかなさとともに、出会いの尊さに気付くこともできるのです。
人の優しさが身にしみて感じることができるのは、自分が深い苦しみの中にいる時です。また、苦しみの中にいる人の辛さが、心の底から共感できるのも、その苦しみを経験したことがあるからでしょう。
年老いたり、病気をしたり、別れの苦しみや悩みが縁となって、仏法にであっていかれる方は、苦難の中にも、そこにある限りない喜びに気付いていかれるのだと思います。出来れば会いたくないと思っていたすべての事柄が、私を導く縁であったといただくことができるのです。それが、お念仏の教えなのです。