住職の小話

2022.04.22

他力本願ってどういう意味?

 今月の法話では、「他力本願」について考 えてみたいと思います。一般的には「他人の力をあてにする」という意味で捉えられることの多い言葉ですが、本来仏教用語である「他力本願」とは、どういう意味でしょうか。まず、浄土真宗本願寺派親鸞聖人鑚仰会総連盟のリーフレットの中から「家族の会話」をご紹介します。

 
(家族の会話)
めぐちゃん 「ねえ、ねえ、お父さん。他力本願ってなあに?」
 
父さん   「なんだ、難しいことを聞くなぁ。そんなこと、他人まかせにしないで、自分で調べなさい」
 
めぐちゃん 「あっ、あった。他人の力をあてにすること…」
 
父さん   「そっ、そうだよ。他人まかせにすることを、他力本願っていうんだ。 世の中、何でも自分で
       努力しなくっちゃ。他人の力をあてにするなんてダメだ!」 
 
めぐちゃん 「でも、もう一つ意味があるよ。仏さまの力…って」
 
父さん   「ああ、そんなこともいうなぁ。おまえも受験するときは、ちゃんと合格祈願にいかないとなぁ。
      実をいうとお父さんも、宝くじを仏壇にお供えしてるんだ」
 
めぐちゃん  「それって他人まかせじゃないの」
 
 じいちゃん  「おいおい、おまえさんたち、願い、願いって、自分たちの願いのことかい。
       他力本願っていうのは仏さまからの願いなんじゃよ」
 
めぐちゃん 「ええっ、仏さまの願い?」
 
じいちゃん 「そうじゃよ、仏さまはすべての人を必ず救いたいと、願われているんじゃよ」
 
めぐちゃん 「すべての人って、私のことも?」
 
じいちゃん 「そうじゃよ。おまえのことじゃよ。迷っている人を必ず救うというのが仏さまの願いなんじゃよ」
 
めぐちゃん 「ふ~ん。でも、私、迷ってなんかないわよ。迷いってなあに?」
 
じいちゃん 「ワシらの願いは、かなわなくても、かなってもキリがないんじゃ。それを迷いというんじゃよ」
 
めぐちゃん 「へ~ぇ、お父さんはどう思う?」
 
父さん   「そうだなぁ、願いにキリがないっていうのは分かる気もするけど、自分ではなかなか気がつか
      ないよな。なあ、母さん」
 
母さん   「そうねぇ、でも、気がつかないっていえば、朝日が差し込んでいるところだけにホコリが
       舞っていてビックリすることがあるでしょ。何もないと思っていても、光に照らされて初めて
      見えてくる、迷いってそういうものじゃないかしら」
 
めぐちゃん 「私、いつもお掃除してるモン」
 
じいちゃん 「ハハハ、掃除のことじゃないよ。仏さまの願いに照らされて、ホコリだらけの自分に
       気づかされるんじゃよ」
 
めぐちゃん 「ホコリを照らす光かぁ」
 
 この家族の会話を皆さんはどんな風に感じられましたか。「他力本願」は「利他力」とも言いますが、自らの利益を求めるものではなく、他の者を思い、他の者の幸せを自らの幸せとするハタラキをいいます。
 
つまり、私から他の者への願いではなく、私に向けられた、阿弥陀如来様の慈悲のお心を指すのです。 人間として生きている限り、止むことのない欲望や、尽きることのない苦しみや悲しみを持ち続けている私たちです。
 
だからこそ、「そんなあなたの苦悩を取り除きたい、いつでもあなたと共にあるのですよ。安心して生きなさい」と、私たちが阿弥陀如来様から願われているのです。
 
そして、その願いの中に、目先の地位や名誉や財産に執着し、自ら苦しみを作り続けている自分であったことを知らされるのです。苦悩の根源が私自身にあったこと、どうしようもない私であることを、見抜いてくださったからこその救いであることに気付かせていただく時、その罪をまるごと包みこんでくださる如来様のお徳の広大さを知るのです。
 
そこに、お恥ずかしい私であった、如来様に申し訳がないという思いの中にも、決して私を見捨てないという願いに、本当の心強さと感謝の気持ちをいただけるのです。          合  掌